2025年8月8日金曜日

加減ってないのかな?

昨日、ゴミを出そうと外に出ると雨が降り出したので散歩を諦めました。
今朝、外を見ると夜に雨が降ったみたい(朝方かな?)。
でも、鹿児島では線状降水帯が発生して被害が出ている。
水不足になるほど少雨だと思ったら一カ月以上の雨が一日で降る。
加減という言葉は自然相手には通じない……
これも人間の経済活動による温暖化がもたらしたものか?
明日は、長崎の原爆忌
原爆が投下されたあとの長崎市」(NHKアーカイブス)

“神のお告げのような音” 長崎に響く2つの鐘」(NHK 8月7日)

ジェームズ・ノーラン・ジュニア教授の講演を聞いた
アメリカのカトリック信者からは、原爆によって地域に住んでいた信者1万2000人のうち約8500人が亡くなった歴史に「知らなかった」という驚きの声が相次いで上がったという
 ゼノさんと孤児
 ポーランドから長崎へ
 

 アウシュビッツ収容所で1人の若い父親の身代りになって死んだコルベ神父。
コルベ神父とともに1930(昭和5)年4月、ポーランドから長崎にやってきたのが、ゼノ修道士とヒラリオン修道士でした。
彼らは聖母の騎士修道院を開き、キリスト教の布教に尽くしました。
(『⑤原爆孤児ーヒロシマの少年・ナガサキの少女』平井美津子編 汐文社 2015年)

 ゼノさんは雑用係として、買い物、料理、掃除、修理、家具づくり、ペンキ塗り、印刷機の手配など、なんでもしました。
日本語は片言しか話せないゼノさんでしたが、その人なつこい性格で長崎の人とすぐに仲良くなりました。
 しかし、時代は戦争へと突き進んでいきます。
ゼノさんたちの行動はすべて日本の警察に監視され、出版も自由にできませんでした。
とうとう修道院に退去命令が出て、修道士たちは熊本県の抑留所に送られます。
けれど、ゼノさんは院長とともに長崎に残ることが許されました。
それは、兵隊の靴の修理を器用にこなすなど、何かと役に立つひとだからでした。
 修道院が孤児施設に

 爆心地から離れていたことや、山かげの地形に守られ、聖母の騎士修道院は原爆投下によっても大きな被害はありませんでした。
ゼノさんは爆風で壁にたたきつけられ気絶しましたが、無事でした。
この日から、ゼノさんの孤児の救済が始まります。
 ゼノさんは浦上(うらかみ)に向けてすぐに出発しました。
ゼノさんは言いました。
 「戦争デ、人間、心、ボロ、ナリマシタ」
 孤児と見れば、ゼノさんは修道院に連れて帰りました。
それは長崎だけでなく、九州の各都市、広島、大阪、東京、舞鶴など各地に及びました。
列車に乗せられた子どもは、長崎駅につくと駅員によって、今度は修道院行きの電車に乗せられました。
いつの間にか修道院は孤児施設になっていきました。
 ニンゲン、ミナ、オナジ

 「ゼノさん、長崎の子どもを連れてくるのはいいですが、他県の子どもは困ります。予算が無いのです」と長崎県庁の役人が渋ると、「ニンゲン、コレ、ミナ、オンナジヨ」と答えます。
ゼノさんのまわりの子どもたちはみんな笑顔でした。
ゼノさんといっしょにいることで安心できたのかもしれません。
 ゼノさんは修道士として教会で祈るよりも、外に出て困っている人を助けることに人生のすべてを捧げました。
何回も修理したボロボロの鞄と破れるほどはき古した靴、ゼノさんの財産はこれだけでした。
(『⑤原爆孤児ーヒロシマの少年・ナガサキの少女』平井美津子編 汐文社 2015年)

「1946年 本河内に聖母の騎士小神学校(中学部)開校 永井隆博士、本校で教鞭を執る」(聖母の騎士学園沿革

病床に綴る 永井教授」(NHKアーカイブス 昭和23年8月10日)

長崎の鐘は鳴り続ける」(NHKアーカイブス 2000年度)
 さんげ 正田篠枝
  戦災孤児収容所

原爆の一瞬の後に生れしとか傷一つなくすこやかな赤ん坊

よちよちとよろめき歩む幼子がひとり此の世に生きて残れり

二歳(ふたつ)四歳(よっつ)六歳(むっつ)八歳(やっつ)の四人の兄妹(きょうだい)べつべつとなりて貰はれゆきぬ

(『日本の原爆記録 17 原爆歌集・句集 広島編』栗原貞子 吉波曽死編 日本図書センター 1991年)

ある人生 耳鳴り ―ある被爆者の20年―」(NHKアーカイブス 1965年4月25日)
 今朝の父の一枚です(^^)/
コロコロと天気が変化します。
朝のニュースでは鹿児島の様子が流れていました。
今まで経験したことがない豪雨だったと話しておられました。

 4章 豪雨豪雪から身を守る
 避難のタイミング


 豪雨災害の場合、現象によって避難のタイミングや時間的猶予は大きく異なります。
東海豪雨ではさまざまな教訓が指摘されました。
東海地方は昔から大雨の被害が多く、何度も浸水の被害を経験された年配の方は、豪雨の浸水は床上、床下で済んでいたため、これまでの雨の降り方との違いに気付かず、わずか30分で背丈ほどの浸水に至り逃げ遅れたという報告もあります。
これまでの経験が役に立たない結果となったのです。
数百年に一度の豪雨というのは、当たり前ですが近代の気象観測データのみで推し量ることはできないのです(図4・2「東海豪雨の時間雨量」:省略)。
(『線状降水帯 ゲリラ豪雨からJPCZまで豪雨豪雪の謎』小林文明 成山堂書店 2023年)

2000年(平成12年) 東海豪雨」(内閣府 防災情報のページ)
 先日、本屋さんで購入しました。
月刊MOE 2025年9月号」 
あまんきみこさんの特集(試し読み
特別ふろくにMOEオリジナル「車のいろは空のいろ」クリアファイルがついています(^^)/