2025年6月21日土曜日

暑さが続き…

朝から30度になっていて暑いこと…
できるだけ木陰を探して歩くようにしました。
久しぶりに公園を歩くとネジバナが咲いていました。

あすも厳しい暑さ 北日本や北陸は大雨のおそれ 災害に十分注意」(NHK)
連日の暑さで、熱中症とみられる症状で亡くなる人が相次いでいるそうです。
朝ドラ「あんぱん」第12週「逆転しない正義」(60)では、
高知空襲が描かれていました。

四国地方の空襲
 抗う術を持たない民衆の思い  
 高知県の空襲
 米独立記念日に襲われた高知


 20年に入ると、空襲への不安は日に日に高まったが、どこの地方でも老人や子どもが自発的に田舎へ疎開することは規制されていた。
高松市も例外ではなかった。
憲兵、警察、警防団などの権力組織、あるいは学校、隣組でも疎開しようとする者を「非国民」と呼び、実力で阻止していた。
 そんななか、高知県における空襲は、当時高知県兵事厚生課軍人援護係にいた岡田義正さんの所蔵記録によると、計49回におよんでいるという。
最も被害が大きかったのは、7月4日未明の高知空襲である。
 この日はアメリカ独立記念日だから空襲はないだろうと、タカをくくっていた。
ところが、米空軍は容赦なくB29から焼夷弾を降らせてきたのである。
(『日本大空襲  日本列島を焼き尽くした米軍の無差別爆撃』新人物往来社 2007年)
 この空襲によって、市内の官公庁や学校、工場はほとんど被害を受け、機能はマヒした。
空襲被害は死者434人、重傷99人、軽傷557人、行方不明22人、建物全焼1万2031戸、半焼169戸、全壊22戸、半壊15戸だった。
 当時、女学校2年だった女性は、「その年(20年)に入ってからは、作業ばかり勉強らしい勉強はなく学生とは名のみの生活であった。そして戦争のことのみに追いまわされ、何もかもが不自由だったためか人々の気持は荒み、その中での唯一の心の支えは夜の自由な時間に、本を読み、音楽を聞き、ピアノを弾くことであった」と述懐する(『日本の空襲―七』)。
(『日本大空襲  日本列島を焼き尽くした米軍の無差別爆撃』新人物往来社 2007年)

高知市における戦災の状況(高知県)」(総務省)
ここ三日間公園に来られなかったのは、私(循環器内科)と父(内科)の通院。
そして昨日は、私の虫歯の治療でした。
日本陸海軍の状況を見ると、戦って「名誉の戦死」よりも病や飢えで亡くなる兵士が大勢いました。
軍部上層部が兵士を人とみるのでなく「駒(消耗品)」としか見ていなかったのだろうと思います。
マラリアなど感染症以外で兵士を苦しめたのが

 コラム②
 戦場における「歯」の問題再び
 

 前著『日本軍兵士』で明らかにしたように、日本の陸海軍は兵士の歯の治療などにあたる歯科軍医の育成を軽視し、陸軍の場合でいえば、敗戦時の歯科医将校はわずか300名に過ぎなかった。
以下、ここでは「歯」の問題をもう少し見てみたい。
 日本歯科医師会は、1924(大正13)年以来、8回にわたり「歯科軍医」制度の創設を求める建議・上申・請願・陳情を帝国議会や陸海軍当局に行ってきた。
第1次世界大戦を契機に欧米諸国が、「歯科軍医」制度の創設・拡充に踏み切っていたからである。
また、日中戦争では近接戦闘の激化に伴い、戦闘によって歯と顎(あご)全体を損傷する顎顔面(がくがんめん)戦傷が増加していた。
そして受傷者の咀嚼(そしゃく)機能などの回復のためには、歯科医の協力が不可欠になりつつあった。
(『続・日本軍兵士―帝国陸海軍の現実』吉田裕 中公新書 2025年)
 それにもかかわらず、陸海軍当局は重い腰を上げようとはしなかった。
陸軍が歯科医将校制度を創設したのは1940年、海軍の歯科医医科士官制度の創設は41年である。
制度の発足が遅れたのは、陸海軍が歯科医療を軽視したからだったが、「学閥」の問題もあった。
 戦前の日本では、帝国大学に歯学部は置かれず、歯科医師の主な養成機関は私立の専門学校だった。
これに対して軍医の主流は、帝国大学医学部の出身者であり、彼らは歯科医師を軽んじる傾向があった(金子譲ほか「戦時下の歯科医学教育 第二編」、『歯科学報』第120巻第2号、2020年)。
 こうしたなかで、歯痛に悩まされる兵士は、軍隊外の民間歯科医の治療を受けるしかなかった。
それは経済的にもかなりの負担だった。
1937年9月に歩兵第149連隊に召集され上海戦線で従軍した五味民啓は、38年5月18日付の祖父宛ての手紙のなかで、「先日来(らい)から歯が痛んで困って」いる、「我慢に我慢を重ねて来」たが、「今度ばかりは医者に見てもらわないといけない」、しかし、軍隊のなかには歯科医はいないので民間の歯科医の治療をうけるしかない、としたうえで、次のように窮状を訴えている。

  何分(なにぶん)上海で二、三軒しかない歯医者なので法外もなく高く、戦友から金をかりて治療しています。お察しかも知れませんが、〔月額〕十円二十四銭の〔兵士の〕俸給では現在の物価高の上海で職務上どうしても足りません。恐れ入りますがさしあたり十五円か二十円ほど送っていただきたいと存じます。 (五味民啓『中国戦線九00日、四二四通の手紙』本の泉社 2019年)
 また、兵士たちの口腔衛生に関する知識も乏しかったと考えられる。
 敗戦後の調査だが、1957年の厚生省調査によれば、「歯を磨かない」、あるいは「時々磨く」と答えた人の割合は全体の約40%にもなった(『日本歯磨工業会史』1991年)。
この調査から20年ほど前、而も戦場ということになれば、歯磨きの習慣を身に着けていない兵士が多数存在したと考えられる。
 これに対してアメリカ陸軍には、第1次世界大戦前から歯科軍医が存在し、第1次世界大戦では1684名の歯科軍医が活躍した。
第2次政界大戦ではさらに増加し、1941年12月時点の歯科将校は2905名、44年11月時点の歯科将校は1万5292名にもなる(前掲「戦時下の歯科医学教育 第二編」)。
日米間の格差にあらためて驚かされる。
 イギリス軍に関しては、歯科医将校としてビルマ戦線で従軍した渡辺民衛の回想がある。
渡辺は、敗戦後イギリス軍の捕虜収容所に入るが、そこで仕事を共にしたイギリス軍の歯科軍医(中佐)のことを次のように書いている。

  この中佐の言動ひとつとってみても、イギリス軍の「歯」に対する観念と日本人のそれとでは大きな違いのあることが私にはよくわかった。イギリス軍では、兵隊に月に一回歯科検診が義務づけられている。〔中略〕もしもこの検診を怠(おこた)り、作戦中に歯痛を起こして行動に支障を来たすようなことでもあると、その兵は厳罰を科せられる。考えてみれば当然のことといえた。痛くなるたびに素人療法でごまかし、しまいにどうしようもなくなってから歯科室に駆けこむ日本人とは大変な違いである。
          (『ビルマ・アッサムの死闘』)

 結局、第1次世界大戦を契機にして、戦場における歯科医療の改革に着手しなかった日本陸海軍は、欧米諸国から大きく立ち後れることになる。
歯科医療の面では、この立ち遅れは特に顕著だったと言えるだろう。
(『続・日本軍兵士―帝国陸海軍の現実』吉田裕 中公新書 2025年)
 朝ドラ「あんぱん」第12週「逆転しない正義」 (60)で次郎は肺浸潤で入院していました。

 第2章 身体から見た戦争―絶望的抗戦期の実態Ⅱ
 結核の拡大― 1個師団の兵力に相当


 兵士の体格、体力の低下は、大量の兵力動員が必然的にもたらしたものだったが、一面では社会で生じている変化の反映でもあった。
 1943年度の軍医部長会議で、陸軍省医務局長は、我が国の人的資源の現況は、農村子弟の都市集中、労働者、特に青少年者の労働強化、結核の蔓延および国民生活の悪化など、青年男子の「体力に及ぼす悪感作の増加のため」、青年男子の体力は年々低下する状況にあるとしている(「昭和十八年軍医部長会議における医務局長 野戦衛生長官指示」)。
 つまり、重化学工業化に伴う都市への人口移動、頑健な農村出身兵士の減少、青年労働者の労働環境の悪化、国民生活、特に食生活の悪化、結核の蔓延などが兵士の供給源である青年の体力を低下させているという指摘である。
なかでも、結核の問題は深刻だった。
(『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕 中公新書 2017年)
 当時、有効な治療薬のない結核は、「国民病」、「亡国病」などと呼ばれていた。
統計によれば、1932年から44年の間に総死亡率が低下を続けているにもかかわらず、結核死亡率だけは急速に上昇している。
特に、20~24歳の男性の結核死亡率が爆発的に増加しているのが特徴的である。
軍需産業の拡充に伴う重化学工業化の進展と陸海軍兵力の増大によって、工場や軍隊における集団感染が拡大したことがその原因の一つだった(青木正和『結核の歴史』講談社 2003年)。
 軍隊内における結核の蔓延も深刻な問題だった。
1939年3月25日に開催された陸軍結核予防規則制定準備委員会で、三木良英・陸軍省医務局長は、日中戦争の「勃発以来、陸軍の結核性疾患に因る除役者〔兵役から除かれた者〕は約26、000名の多きに達せり。これはほぼ1ヶ師団の兵力に相当す。軍としては国防を担当する青年層に本疾患の多発しあることは深憂に堪えず」と発言している(前掲、『陸軍省業務日誌摘録前編』)。
 医事課長の鎌田調も、同年6月10日の口演で、主な徴兵検査不合格者として、「筋骨薄弱、結核性疾患、視力障害、外傷性不具、短尺〔身長が規定に満たない者〕等」をあげ、「この中、最も注意を要しますのは、筋骨薄弱および結核性疾患で丙、丁種増加の主因をなして」いると指摘している(「地方衛生技術官等会同席上における陸軍省医事課長口演要旨」)。
結核患者は陸海軍の人的資源を確実に枯渇させていた。
(『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕 中公新書 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)/
コミスジだと思います…

 コミスジ(タテハチョウ科) 

好んで花を訪れるが、イボタやニラなど白い花を特に好む。
地面におりて吸水したり、果実や鳥の糞などから吸汁することも多い。
食草はクズやハギなどのマメ科植物で♀はおもに食草の葉先に1個ずつ産卵する。
(『フィールド図鑑 チョウ』日高敏隆監修 東海大学出版会 1984年)

前にも書きましたが、母が沖縄戦で日本軍が負けると分ったのは
米軍は、キャンプを移動する時に缶詰などの食料を大量に残していきました。
それを夜になって日本兵が取りにいくのを目撃した時です。
そして、徳之島で父が目撃したのは、母親が芋を蒸かしている時に日本兵が並んで待っていました。
日本兵は補給がなく現地調達となるのですが、
朝ドラ「あんぱん」第12週「逆転しない正義」 (58)で描かれていたように掠奪となり
補給のない兵士は憐れですし、現地の人々に日本軍への憎しみを植えつけるだけでした。