今朝は、曇っていたけど蒸し暑かったです。
もうそろそろ咲いているかなと思っていたら咲いていました(^_^)b
ヒナキキョウソウ
とっても小さな花ですがキキョウに似てかわいい花です。
これから雨が降る予報でもうじき梅雨になるのかなと思っていたら
「九州南部 全国で最も早く梅雨入り 沖縄・奄美より先に」(鹿児島NHK)石垣の隙間に咲いていました。
ヒナキキョウソウは、花が1個から2個つきますが、キキョウソウは5個ほど咲きます。
ヒナキキョウソウ、キキョウソウともに北米原産です。
キキョウソウ
北米原産の帰化植物。
まっすぐな茎をすっくと立て、最初のうちは閉鎖花を付けるため目立たないが、しばらくするとやおら紫の、キキョウをごくごく小さくしたような花を付ける。
枝が出ないので横幅もとらないし、花が終わるとじきにタネを付けて枯れてしまうので、邪魔にならず、花も見所がある。
そのため帰化植物にしては嫌われることもなく、明治以降、地道に日本で繁殖してきた。
果実がちょっと変わっていて、熟してくると横腹に窓を開き、そこから小さなタネを振り撒く。
茎がひょろ長いので、風で揺れると七味唐辛子のようにタネが散らばるという仕組みだ。
近くに隙間があれば、うまく潜り込んでそこからまた次の世代が生えることになる。
キキョウ科
(『スキマの植物図鑑(旧版)』塚谷裕一 中公新書 2014年)朝ドラ「あんぱん」第7週「海と涙と私と」 (35)
冒頭、蘭子が豪のはんてんに無言で触れている姿は、切なかったです。
子や恋人が無事戻って来ることを祈っていた女たちがどれほどいたか。
そんな女たちの祈り、願いを踏みにじるかのように
「のぶたちが 女子師範学校を卒業する日が近づいて」いたその頃、
1938(昭和13)年1月16日
政府、中国に和平交渉打切りを通告。
「国民政府を対手(あいて)にせず」と声明(第1次近衛声明)。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)黒井先生に「この戦いの究極の目的は何でありましょうか。」
と問われた卒業生たちは
「東洋の平和 世界の安泰 御国(みくに)の栄光!」
これは当時の多くの日本人が信じていたことだと思います。
父も母も朝礼で校長先生が話された大本営発表を信じていました。
1945年(昭和20年)8月15日にラジオから聞こえてきたのが
「終戦の詔書(玉音放送)」(NHKアーカイブス 1945年度)終戦
八月十五日 水曜日
何事ぞ!
悲憤慷慨その極(きわみ)を知らず、痛恨の涙、滂沱(ぼうだ)として流れ、肺腑は抉(えぐ)らるるばかりである。
我等一億同胞胸に銘記すべき八月十五日。
嗚呼(ああ)、遂に帝国は無条件降伏を宣言したのである。
今日正午、畏(かしこ)くも陛下におかせられては玉音おん自ら、痛ましくも詔勅を読まれてその次にすぐポツダム会談を受諾した旨、発表された。
すなわち日本の無条件降伏。
(『田辺聖子 十八歳の日の記録』田辺聖子 文藝春秋社 2021年) 嗚呼日本の男児何ぞその意気の懦弱(だじゃく)たる。
何ぞその行(おこない)の拙劣たる。
陛下におかせられては、広島に投下せる一原子爆弾とソ連の挑戦とにつき、この上、民草を苦しめるに忍びずと仰せられているが、陛下よ、臣ら草莽(そうもう)の微臣(びしん)、いやしくも大和民族たるものは、一人として瓦となり全からんこと期するものあらざるなり、然り、日本民族の栄誉にかけて三千年の伝統をそのままに、玉と砕けんことをこいねがう。 何の為の今までの艱苦(かんく)ぞ。
サイパン島同胞婦人、日本の勝利を信じて静寂に髪を梳いて逝き、アッツ島守備兵また神国不滅を確信して桜花に散り、沖縄の学童はいたいけな手に手榴弾を握って敵中に躍り込み、なかんずく、特攻隊の若桜はあとにつづくと信ずと完爾(かんじ)と笑って散った。
嗚呼何の為に我々は家を焼かれたか。
傷つき、そして死んだか。 皇国の不滅を叫び天皇陛下万歳を奉唱し、後につづく者あることを逝った幾多の英霊に対して、我ら一億何の顔あってか地下に見(まみ)えん。
全てを「勝利」にささげ、全てを「勝利」に信じて孜々として己れを捨ててきたではないか。
我らはたとえ幾千の原子爆弾頭上に落下するも恐るるに足らず。
もし敵一歩たりとも本土に上陸せば、白醜の碧眼一人半手隻足りとも斬りつけて死なんものをと激しき闘魂にふつふつと身を焼いているのである。 しかるに嗚呼、何らなすことなく徒(いたず)らに双手を上げて、何処(いずこ)に三千年の伝統と美しき国体は存するや。
一億必死の時至らば刺違えて死なんものをとまで思いつめ、全てを祖国へ捧げて来たものを。
我ら学徒もまた、美しき、また再び来ざる青春の時代を惜しげもなく祖国に捧げたてまつり、勉学にうちこむべき精力をすべて生産増強にふりむけて傍目(わきめ)もふらずひたすらに国想うおとめごころの赤き一すじの道を、ひたばしりにあゆみすすんで来たものを。
男子の学徒もまた学窓を出でて筆を捨て、雄々しく空へ海へとあまかけり行った。
何故? ああ、全て、祖国のかがやかしき勝利を確信して! われわれ罹災者は家を焼かれた。
また闇をにくみ、不自由に堪えた。
何事ぞ。
その艱苦、報いらるるに最大の恥辱を以て与えらるるとは。
我々の忍耐と努力と艱難に対して報いらるるところはあまりにも痛憤せざるを得ない事実である。
…後略…
(『田辺聖子 十八歳の日の記録』田辺聖子 文藝春秋社 2021年)
「試し読み」で日記が発見された経緯などがわかります。 私の好きな映画「ジョゼ虎と魚たち」に出演されていた新屋英子さん
(原作は田辺聖子さん)
第一章 戦争
天皇の「玉音放送」
さて、ほとんど眠れずに敗戦の日、八月十五日を迎えました。
「今日は重大な放送がある」。
少尉殿は昼にラジオが役場の広場に集まることを命じました。
私は「玉砕するまで頑張れよ、との勅語だろう」と思い役場に行き、気を付けの姿勢で聞いていたのですが、雑音が多く、何を言っているのかわからない。
この時、初めて天皇の声を聞き、「これが現人神の声か」と、重々しい幼く感じる喋り方に茫然としました。
しかし何が何だかわからず、別室へ戻ってくると、勤労動員の学生たちがシュンとしていて、「戦争に負けた」と言ったので驚きました。
天皇の敗戦宣言の玉音放送だったのです。
(『女優 新屋英子 私の履歴書』新屋英子 解放出版社 2005年)<日本は戦争に負けるはずがない>
本当に神風が吹くと思っていた私は「そんなアホなことはない」と大声で泣きじゃくりました。
ところが少尉殿は軍刀を投げ捨てたのです。
「日本は負けた。今日からわしらの世の中じゃ」
「この人、頭おかしくなったんやないか」と驚きました。
少尉殿は前から短波放送を聞いて、ヤルタ会談とか、連合国が日本をどうするか、分配方法までも相談していることも知っていて、「大型爆弾が落ちた。これはえらいことになる」と教えてくれました。
八月六日の広島、九日の長崎に落下された原爆のこともいち早く私に知らせてくれました。
それでもなお私は日本の劣勢を信じられませんでした。 しかし、次々と事態が進展していくうちに、私は真実を知るようになりました。
マインドコントロールされていた十六歳の私はその日から大きく人生が変わり、自分の目で見、自分の心で話すことの大切さを自覚し始めることになったのです。
直ちに全員が管理事務所がある尼崎に帰ることになり、一日にして軍の解散です。
戦争がやっと終わったのです。
(『女優 新屋英子 私の履歴書』新屋英子 解放出版社 2005年)今朝の父の一枚です(^^)/
シジュウカラが子育てをしていたのかなと話していました。
[4]観察したい暮らしのひとコマ
卵をあたためるのは、メスだけの種類が多いのですが、つがいが交代で行うものもあります。
タカなどは卵を1~数日おきに合計2~5個産みますが、産み始めと同時にあたためていくので、ヒナのかえる日、巣立ちの日に差が出ます。
小鳥たちは毎日1個ずつ産み、ふつう全部産み終えてから抱き始めるので、巣立ちがそろいます。
卵の数は3~6個程度で、多いのはシジュウカラの8個、エナガの12個など。
小鳥の卵は12~15日間ほどでかえりますが、カモの仲間は1ヵ月近く、オオタカなどは40日近くかかります。
(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)