ひこうき雲がのびていました。
歩いているうちに幾筋ものひこうき雲。
これから天気は下り坂です。「イスラエル極右政党の支持者などが集会 軍事作戦継続訴える」(NHK 5月27日)
ニュースの動画を見ていて新約聖書に書かれている情景と重なりました。
高橋美香さんの投稿に(5月27日)
1/21に攻撃が激化して難民キャンプの自宅を追われてもう4ヶ月以上避難生活が続くマハと久しぶりにゆっくり話せた。
キャンプからの「避難民村」と化している某地避難先での現状をいろいろと聞く。
子どもたちは、キャンプを追われて長く中断していた学校の代わりに、週三日避難先で授業再開とのこと。
投稿の続きを読んでほしいです。
アメリカでも若者が集会を開いているのですが、
「ハーバード大で学生が抗議デモ 留学生に代わり措置の撤回訴え」(NHK)Shoko Egawaさんの投稿(5月25日)に
昨日の日経「春秋」に、日米開戦後のハーバード大が学生の鶴見俊輔にどう対応したかが紹介されていて、驚いた。
FBIに押収されかけた彼の書きかけ論文を教授が取り返し、収監先の留置場に試験官を派遣し、獄中で仕上げた論文を評価して卒業証書を出した、と。
筋金入りの学問の自由。
伝統なのだろう。
日本でも朝ドラ「虎に翼」を思い出させる事態が起きています。
「日本学術会議 国から独立した法人化法案 会長経験者“廃案を”」(NHK 5月20日)昼食を食べながら関西のニュースを見ているとビックリ!
次の京都の町歩きで見たいと思っていた榎の大木が倒れてしまっている
遅かったなぁ…(T_T)
「京都 坂本龍馬にゆかりがあるとされるエノキの大木 倒れる」(京都NHK)
32 武信稲荷(たけのぶいなり)神社 (中京区三条通大宮西入ル二筋目)
必勝祈願
武信稲荷の絵馬は「勝駒」といい、将棋の駒型に「勝」の字が書かれています。
ここにお参りする人は必勝祈願が多く入試合格、競技優勝、選挙勝利、願事成就などを祈り、また名づけの神としても知られています。
平安初期、この近くに藤原氏の子弟を集めた勧学院という学問所がありましたが、貞観元年(859)、右大臣藤原良相(よしみ)が医療施設として神社の地に延命院を建て、これらの守護社として稲荷大神を祀ったそうです。
後年、勧学院、延命院は廃絶してしまいますが鎮守社だけが残りました。
延命院の名が示すように、はじめは寮生の健康長寿と病気平癒が主な祈願であったようです。
(『続 京のご利益さん』田中泰彦著 加登藤信撮影 京都新聞社 昭和60年) その後、藤原武信という人が深く信仰して再興し、社域をひろげたので武信稲荷とよばれるようになりました。
江戸中期からこのあたりは青山播磨守の藩邸となり神社もその邸内に入りましたが、明治維新で藩邸もなくなり武信稲荷は付近一帯の人々に信仰されて今日に至りました。
境内にはご神木として榎(えのき)の大木がそびえ京都市指定天然記念物になっています。
これは源平の昔、平重盛が安芸の宮島から苗木を持ち帰ったと伝えられるもので幹のまわりは約5メートルほどあります。
稲荷神は本来宇宙のエネルギーを象徴する神で、生きるものすべてのいのちを守り繁栄させられる生命力の根本の神です。 境内には神仏混合でいろいろの神さまや仏さまをお祀りしています。
苦をぬくお願いの釘ぬき地蔵には子宝・幸運を願い心身の病をとりのぞく願かけが多く見られます。
境内のお塚にはいろいろな信仰を持った方がお参りされます。
毎日、般若心経をあげられる方や、南無法蓮華経をとなえる方もあり、南無妙法蓮華経のお題目を刻んだお塚があります。
神社の南側は江戸中期から明治維新にかけて幕府直轄の六角獄舎がありました。
幕末にはここに若い勤王の志士たちが多く収容され、処刑されています。
また、宝暦4年(1754)に山脇東洋がわが国で最初の腑開(ふあ)け(人体解剖)を行った地でもあります。
…後略…
(『続 京のご利益さん』田中泰彦著 加登藤信撮影 京都新聞社 昭和60年)
「御神木の倒木と御寄附について」(武信稲荷神社 5月27日)「満寿形屋(ますがたや)」( 5月18日の記事)でいただいた鯖寿司に関連して
第4章 京の求心力と京ブランド
鯖街道
京の海魚
京都市には海がない。
長く日本人のタンパク源であった魚を、市内の京都人はどのように手に入れていたのだろうか。
先の鱧のほかにも、京都の魚を特徴づけるものが三つある。
そのひとつが川魚で、これについてはすでに書いた。
もうひとつのジャンルが保存食品としての海の魚である。
市内で年配の人に「京の伝統料理は何か」と聞くときっと名前が挙がるのが「芋棒」と「にしんそば」である。
聞きなれない名前だという方も多いだろうから簡単に説明しておきたい。
(『京都の食文化 歴史と風土がはぐくんだ「美味しい街」』佐藤洋一 中公新書 2022年)
…中略…
(引き続き 「芋棒」、「にしんそば」、そして「グジ」について書かれていますが省略します。代わりに老舗のお店を紹介します(^_-)
「いもぼう 平野屋本家」、「総本家にしんそば 松葉」、「山ばな 平八茶屋」) 塩鯖と鯖寿司
京の魚でもうひとつ忘れてならないのが「塩鯖(しおさば)」である。
これまた京の求心力のなせるわざであった。
サバはほぼ年間を通じて獲れる魚で、かつてはアジ、サンマやイワシなどともに「青魚」の仲間に入る大衆魚であった。
とくに日本海側でよく獲れ、よく食べられた魚のひとつだったのだ。
しかしこれら大衆魚が、いまでは値も高く決して大衆魚ではなくなってしまったのは残念である。
サバは身に脂肪分を多く含み、傷みやすいので保存には適さないように思われがちである。
ところが獲れたてのサバの頭を取りワタを抜いて塩をすると、少しは保存が利く。
若狭湾から山陰沖で獲れたサバに軽く塩をしたものを京都に運んできたのが塩鯖である。 塩鯖を運ぶ道を「鯖街道」といった。
街道とはいうものの、一本の明確な道路があるわけではない。
シルクロードと同じように、あくまで仮想上の経路である。
若狭湾に面する敦賀か小浜(おばま)の港に上がったサバはそこで処理されたうえで塩をされ、山を越えていったん滋賀県に入る。
そこから再び峠を越えて京都市左京区に入り、大原を通って高野川沿いに南下する。
あるいは琵琶湖に入り大津から逢坂山(おうさかやま)を越えて市内に入る。
距離はどちらも18里(約72キロメートル)ほどという。
大阪に達する鯖街道もあった。
こちらは、たとえば兵庫県香住(現 美方<みかた>郡香美町<かみちょう>)や竹野(たけの 現 豊岡市)の漁港に水揚げされたサバが大阪に運ばれたのである。 この塩鯖を使った寿司が「鯖寿司」である。
サバの身を三枚におろして成形し、軽く酢でしめたものを酢飯の上に載せて作る。
店によっては、サバの上に薄い酢昆布を載せることもある。
形はいろいろだ。
多くは図(いづうの「鯖姿寿司」)のように、サバの身の形に合わせた山形をしていて、食べるときはこれを2~3センチ幅に切って食べる。
山形にせずに四角く成型したものもある。
祇園の寿司店の老舗「いづう」の佐々木勝悟さんによると、祇園で鯖寿司は一種の「ハレ」の日の食で、お茶屋が宴席で客にふるまったという。
「いづう」の鯖姿寿司は古伊万里(こいまり)の皿に盛り付けられ、輪島塗(わじまぬり)のおかもちに入れて届けられた。
それはいまでいう「出前」の一品であった。 和歌山県の紀ノ川(きのかわ)流域から奈良県にかけての地域では、鯖寿司を柿の葉で巻いた柿の葉寿司が知られる。
いま市販されている柿の葉寿司は四角いすし飯の上にあらかじめ切っておいた「きずし」(サバの身を酢でしめたもの)を載せたものだが、形としては、鯖寿司の切り身を柿の葉で巻いたものといえる。
なお、奈良には、この柿の葉寿司とは異なる鯖街道があったようだ。
この街道は熊野灘(くまのなだ)に面する三重県紀伊長島(きいながしま)で上げられた鯖が旧熊野街道、伊勢(いせ)街道を経ていまの宇陀(うだ)市に達するものである。
この街道はいまではまったくすたれてしまったが、宇陀は古くから奈良と東国を結ぶ交通の要衝でもあり、また室生寺(むろうじ)など古刹も多く存在する。 鯖街道に限らず、古代からの道は山のなかを通るものが多い。
現代人の感覚からは山中の道など交通の便としてはいかにも悪そうにみえるが、案外そうではなかったらしい。
現在の主要道路や自動車道は、急傾斜とカーブを嫌い、街と街のあいだを最短コースで結んでいる。
けれどもそれ以前の時代、陸上輸送のかなめは牛馬であった。
そしてその牛馬にとって、平野部は低湿地が多くかえって歩きにくかった。
(『京都の食文化 歴史と風土がはぐくんだ「美味しい街」』佐藤洋一 中公新書 2022年)今朝の父の一枚です(^^)/
第2章 スズメ―町の代表種
†巣探しの極意
スズメはさまざまな隙間に巣をつくりますが、ある程度、地上からの高さがあるところを好みます。
あまり低いと、ヘビなどに襲われてしまうからです。
…中略…
先ほど書いたように、スズメの巣そのものを見ることはできませんが、巣の場所の特定は、慣れれば難しくありません。
手がかりは主に三つです。
一つ目の手がかりは巣材です。
スズメの巣は草などを編んでつくられるのですが、草が一本だけ外にぶら下がっていることがあります。
これを見つければ、その奥に巣があるとわかります。
二つ目の手がかりは親鳥の行動です。
親鳥は、ヒナの世話をするために頻繁に巣に出入りします。
餌も運んできますし、ヒナの糞を咥(くわ)えて外に捨てに行きます。
そういった親鳥の行動から、巣の位置を特定できます。
三つ目の手がかりは、ヒナの声です。
ヒナはおなかが減ると、親鳥に餌をねだるために声を出します。
シャリシャリシャリあるいはシリシリシリというような声です。
昔の本を読むと、「スズメのヒナの声は、鎖時計の鎖をすり合わせたような音」とありますが、今どき、そんな音を聴く機会はありません。
これらを手掛りにスズメの巣を見つけることができます。
巣を探しやすい時期は、サクラが散ってからちょうどひと月後くらいから、8月ごろまでです。
…後略…
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)