2014年11月30日日曜日
2014年11月25日火曜日
本能寺~四条河原
23日(日)の続きPart3です(*^O^*)/
本能寺卯木山(うぎさん)と号する本門法華(ほんもんほっけ)宗の大本山。
本尊は十界大曼荼羅(じゅっかいだいまんだら)。
1415(応永22)年,日隆(にちりゅう)が油小路高辻(あぶらのこうじたかつじ)と五条坊門の間の地(現,下京区)に創建。
当初は本応寺(ほんのうじ)と称し,1436(永享<えいきょう>8)年に現在の寺名に改めた。
茶屋や塩屋・小袖(こそで)屋一族の上層町衆の帰依(きえ)を得て宗勢をのばした。
天文(てんぶん)法華の乱で一山は灰燼に帰したが,その後日承(にっしょう)が油小路蛸薬師に中興した。
寺域が拡大で,城郭風の構造であったため,織田信長の上京時の宿舎とされた。
1582(天正10)年6月,信長が家臣明智光秀に襲撃されて自害した,いわゆる本能寺の変がおこった。
1587年,豊臣秀吉の命で寺町通の現在地にうつった。
江戸前期の日甫(にっぽ)(大住院以信<だいじゅういんいしん>)は立花(りっか)に秀で,本能寺未生流をおこした。
天明の大火に続き1864(元治元)年の禁門の変に類焼。
現在の堂宇は1928(昭和3)年の再建。
境内には織田信長・信忠(のぶただ)父子供養塔および変に殉じた家臣の慰霊塔がある。
また,その北側には檀家薩摩藩島津家ゆかりの供養塔や日承の墓所がある。
ほかに「信長首洗いの井戸」とよばれる本能寺井戸や浦上玉堂(うらがみぎょくどう)・春琴(しゅんきん)父子墓碑などがある。
寺宝に「伝藤原行成(ゆきなり)筆書巻」(藤原期・国宝)や「花園天皇宸翰(しんかん)御賀礼」(鎌倉期・国重文)などがある。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)
2014年11月23日日曜日
2014年11月20日木曜日
冬空でした…
サクラの木から樹液が出ていました。
何か瞑想している顔に見えました。
サクラはウィルスから身を守るため,傷口より「ヤニ」(松ヤニのようなもの)を出します。
この「ヤニ」はチューインガムの代用として,昔の子供達はよくかんでいました。
味は着果(種)と同様甘みがあります。
(滝川市 森のかがく活動センター情報誌 「えこあっぷ! 」)
何か瞑想している顔に見えました。
サクラはウィルスから身を守るため,傷口より「ヤニ」(松ヤニのようなもの)を出します。
この「ヤニ」はチューインガムの代用として,昔の子供達はよくかんでいました。
味は着果(種)と同様甘みがあります。
(滝川市 森のかがく活動センター情報誌 「えこあっぷ! 」)