公園を歩いていると、日ざしが眩しく、しだいに暑くなってきました。
小学校の子どもたちがオリエンテーリングをしているのかな
異年齢のグループで活動していました。
急激に気温が上がると体調管理が大変です!
「近畿各地で28度超を観測 15日も夏日予想 熱中症に注意を」(関西NHK)朝ドラ「あんぱん」公式の投稿に
「あんぱん」でよく出てくる土佐ことばをまとめました
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お国ことばはいいですよね。
言葉の意味が分からなくても演じる方の表現で伝わってきます。
先週の蘭子と豪の場面、標準語で演じられたら二人の思いがあれほど伝わったかな?のぶが提案した「慰問文・慰問袋」のことなんですが
2 軍事郵便をめぐる不公平
手紙が来ない
(…省略…)
慰問文の減少
1940(昭和15)年ごろ静岡県臨時軍事援護部が作成した、A4判全8頁の県民向けPR紙『前線と銃後の連絡』という史料が私の手元にある。
内容を一言でいえば、前線兵士に送る慰問文・慰問袋の作り方指南書であるが、なぜこの時期そのようなものが作られたのか。
つぎの記述は、その理由を端的に示す。
(『皇軍兵士の日常生活』一ノ瀬俊也 講談社現代新書 2009年) 昭和十二年八月から、昨年末まで約二ヶ年半の間に於いて、本県内から戦線へ送った軍事郵便と戦線から本県に来た軍事郵便について調べて見ると、昭和十二年八月から十二月までの五ヶ月間は局部的には銃後から前線へ送ったものが多い所もあったが、現全体では約一割五分も少ない。昭和十三年一月から十二月までの一ヶ年間は、その方面も銃後から送ったものが少なく、全体では約四割にもなって居る。昭和十四年一月から六月までの数は、やはり前年と略々(ほぼ)同じ割合の二割であったが、七月七日の事変記念日を期して各方面に於いて軍事郵便の増嵩(ぞうすい)を期した結果、年末までに大部盛り返して、約一割五分程度となった。 やや意外に思えるが、事変当初から銃後県民が出す手紙は、戦地から銃後へ届く手紙にくらべ15%も少なく、戦争の長期化につれてさらに落ち込んだ、というのである。
前線の兵が「多忙な時間を割き、不自由を忍びつつ、内容についても制限を受けながら出す軍事郵便」よりも、人数においてまさる国民の手紙が少ないというのは「洵(まこと)に驚かざるを得ない」、これでは兵士の士気にかかわる。
以上のことが、静岡県がわざわざ本紙のようなPR紙を作成せねばならなかった理由であった。 同紙の批判・指導の矛先は、市町村役場にもおよぶ。
「戦地からの注文によれば、県下市町村の約二割は非常に連絡通信が良く、約五割は普通で、後の二割位は殆ど、なって居ない模様である」。
これでは手紙のもらえない市町村出身の兵士は「よく連絡のある市町村出身者に比べて、あまりにもみじめ」であり、同じく士気にかかわる由々しき事態である。
事実、前線からは「ノモンハン事件が始まってから故郷の便りも少なく、なんとなく俺達は銃後の方から忘れられて行くのではないかと淋しい(富士郡○○出身佐野君)といった不満が寄せられていた。 そのため同紙は、市町村内の農作物の状況や村の行事を印刷送付してやれば、「印刷通信は面白くないと言いつつも、工夫すれば非常に喜ばれる」「尤(もっと)も印刷物の如きはあまりキチンとしたものや文章が精錬されて居るものは却って読まれないので、速報式、雑然たるものの方が良い」と、不公平を解消すべくきわめて具体的な指示をおこなっている。
注文をつける兵士たち
そして兵士たちは慰問文の内容にも細かい注文をつけていた。
「これは例外ですが、慰問文の中に無言の凱旋(がいせん)を待って居る。どうか戦死して下さいというのがあった。勿論その意味は良く汲めますが、如何なものでしょう」。
建前だけでは動かない兵士たちの心情がみてとれる。
はからずも、静岡県という〝役所〟までもが引きずられてそのような「国家への献身」という建前を否定してしまっているのである。 兵士たちの銃後に対する不満は、慰問文のことにとどまらず多岐にわたっている。
たとえば慰問絵の問題がある。
おおむね「郷里を偲(しの)び子供のことを思い出」せるのでとかく気分の荒(すさ)みがちな兵士たちには喜ばれるが、時に蒋介石(しょうかいせき)をぶん殴っている絵を送ってくれる人がある。
しかしこれは非常に困る。
理由は、これらの絵は中国人相手の「宣撫(せんぶ)に利用」するからである。
本や雑誌、新聞といった慰問品を送ってくれるが、「戦争文学は第一線ではあまり喜ばれない」。
なぜなら、「それ以上に現実をよく知って居るから」である。 慰問袋についても兵士の注文は多い。
慰問袋も郵便同様に発送数が減っているのでもっと送ってほしいが、中身についての注文もある。
以下、「現地の兵隊さんの声を聞こう」。
団体等で一律に作られたものはその中味が多くても感激の程度が薄い。やはりこれは個人で工夫し必ず慰問文を入れて、個人の名前で送ってもらいたい(小笠郡東山口村出身西田君)/食料品は少なくとも一ヶ分隊位で分け合えるほどの量を入れて頂きたい。個人宛のものでも必ず五人なり十人なりで分けあう(浜松市出身内山君)/煙草と干魚等を混用すると折角の煙草が駄目になる(賀茂郡安良里(あらり)村出身小出君)/皮膚病の薬が欲しい(浜名郡鷲津町出身鈴木君)
何とも切実具体的なものであり、前線兵士のおかれた境遇の一端がかいま見える。 身の上相談
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軍事郵便に記された残虐行為
ところで、軍事郵便といえばすぐ頭に浮かぶのは検閲である。
検閲は上官や憲兵の手で非常に厳格におこなわれ、そのせいで書きたいことを書けなかったというのが一般的なイメージである。
だが、検閲はつねに厳密におこなわれていたというわけでもなかったようだ。
筆者の手許に、日中戦争初期の上海・南京攻略戦にも参加した部隊の兵士が地元・福岡県八幡市の小学校やその同僚に送った四通の軍事郵便がある。
兵士の名はW・Tといい、どうやら小学校の教師だったようだ。
所属部隊名は「柳川部隊牛島部隊片岡部隊宇土部隊平尾隊」とあるが、これはそれぞれ第一0軍・第一八師団・歩兵第一一四連隊(小倉)・同第一大隊・第一中隊を指す。
Wの郵便はいずれも封書で、表には検閲者の印が押してあるが、同僚の女教師に送った(1938年)1月4日付の封書には、つぎのような日本軍の残虐行為を記した一節がある(【図8】省略)。 〔三七年〕十一月五日、上陸地点で最初、十七八才位の正規兵が、日本刀でバッサリやられているのを見た時は、飯の味もなく、飯も食えぬ位でしたが、其後毎日々々目撃、其後何百何十、中には頭の砕けているのがある、脳味噌が流れ出ているのがある、肩を切られているもの、黒焦げに焼かれているもの、野犬に其肉を食われているもの……等々、実に無数、又一同も之になれ、後には其口や鼻に弾を打ったカラ(薬鋏〔莢〕)を突きこんだり、耳に竹をつきこんだり、裸体にしたり……わざと裸体として焼いたり、女を裸体にし仰臥(ぎょうが)せしめたり、更に之に悪戯をしたり……等々全く御話にならぬ位(後略) 彼はこのほかにも、上陸以来の部隊の行動日時や味方の犠牲者数を具体的に書いているのだが、それらは普通に検閲を通過して内地まで届いている。
よく、「南京事件など日本の残虐行為は日本国内ではまったく報道されず、そのため中国戦線の実態が国民の知るところとなったのは東京裁判においてである」と言われることがある。
日中戦争期の軍事郵便検閲がじつは完璧ではなく、日本軍の蛮行がそのまま書かれて内地へ届いている事例はこれまでにも指摘されている(新井勝紘「パーソナル・メディアとしての軍事郵便」『歴史評論』682、2007年)が、こうした郵便の存在をみると、本当は日本国民のなかにも戦争のむごい実態を知っている人は多かったのではないかとあらためて思う。 ただそうした知識は、この手紙の数行後に「断じて戦敗国の惨はなむ〔=嘗む〕べきでありませんね」と書かれているように、反戦思想とまったく異なり、むしろ戦いを正当化していく方向に人びとの意識を動かしていったのではないかと私は考えている。
もし、Wのように教育を受けた人間だけが長いリアルな手紙を書けて、その結果上官に面倒がられて検閲を免れ、戦況や自分の境遇を家族や知人に逐一知られることができていたのだとしたら、それはそれで一種の社会的不公平とということになるのかもしれない。
(『皇軍兵士の日常生活』一ノ瀬俊也 講談社現代新書 2009年)
沖縄戦について歴史修正主義者が跳梁跋扈していますね…
戦後レジームの脱却とは、戦前・戦中を目指している
「日本学術会議 国から独立した法人とする法案 衆院本会議で可決」(NHK)
「世界 2025年6月号」
「学術会議解体法案は、日本の科学の死だ」山極壽一
を、ご一読下さい今朝の父の一枚です(^^)/
ヒルザキツキミソウ (昼咲月見草) アカバナ科
北アメリカ原産で、大正時代の末頃に観賞用に導入されたものが、各地に野生化している。
夕方に咲きはじめるマツヨイグサの仲間だが、本種は昼間咲いている。
つぼみのときは、うつむいて下を向いているが、花を開くと上を向いて優雅に咲く。
最盛期には株全体が花で覆われるほど、花つきがよく、次々と花を開くが日本では結実しない。
基本種は白花だが、よく見るのはカップ咲きのピンクの花で、モモイロヒルザキツキミソウとも呼ばれる。
(『道草の解剖図鑑』金田初代 エクスナレッジ 2021年)
「日本では結実しない」となっているのですが、これだけ繁殖したのは?
検索すると
《森の植物の歳時記》 [185] 【ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)】(ニッセイ緑の財団)
他にもありますので検索してみてください。